飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)は、天皇の住まいと政治を行う場所が一緒になった宮殿のあとです。現在の明日香村に建てられました。それまでは天皇がかわるごとに王宮を引っ越しさせていましたが、飛鳥宮がつくられた630年から藤原京という大規模な都にうつるまでの間は、天皇がかわってもほとんど同じ場所に宮殿が建てられました。
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「飛鳥・藤原」ってなに?
今から1400~1300年前の飛鳥時代には、中国や朝鮮半島の国ぐにとさまざまな交流が行われていました。私たちの祖先は、中国や朝鮮半島から伝わってきた新しい文化や社会の仕組みを取り入れ、それまでの伝統的な文化と組み合わせて発展させ、新しい国の基礎をつくり上げました。
かつて「飛鳥」と「藤原」と呼ばれた地域(現在の橿原市、桜井市、明日香村)には、このころにできた宮殿、寺院、庭園、古墳など地面の下に眠る遺跡がたくさんあります。
「日本」誕生の記憶が刻まれている「飛鳥・藤原」を、
未来に伝えていくべき宝物として世界遺産への登録を目指しています
飛鳥時代ってどんな時代?
592年、推古天皇が飛鳥の{brsp}地で天皇の位につきまし{brsp}た。その後、都が飛鳥・藤{brsp}原から平城京に遷る710年{brsp}までの約120年間を飛鳥時代と呼んでいます。
この時代に、乙巳の変・壬申の乱といった大きな出来事が起こり、聖徳太子・蘇我馬子・天智天皇・天武天皇・{brsp}持統天皇が、新しい国づくりをめざし活躍しました。
仏教が広がる
飛鳥時代には、飛鳥の地で日本初の寺院が建立され、仏教が広まりはじめました。飛鳥寺や橘寺、山田寺、川原寺などは、中国や朝鮮半島から伝わった新しい技術によって建てられました。
藤原京が完成
大和三山(香具山、畝傍山、耳成山)に囲まれた藤原宮という王宮を中心に、日本で初めてマス目状に道をはりめぐらせた大都市となる、藤原京をつくりました。
律令国家のはじまり
罪をおかした人を罰する「律」と国や政治のしくみを定めた「令」を持つ「律令国家」をつくりました。
構成資産
「飛鳥・藤原の宮都」は、約100年間におよぶ飛鳥時代において、「日本」のはじまりとして国が形づくられたことを表す文化遺産です。宮殿、寺院、庭園、古墳といった22の遺跡などで構成されています。
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飛鳥宮跡
飛鳥宮跡
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飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)は、飛鳥宮にとなりあう場所にある庭園のあとです。南池と北池があり、高い技術を用いて石で作られた噴水やとても大きな石槽が置かれました。中国や朝鮮半島でも、飛鳥京跡苑池の一部と似た技術が使われており、苑池に使われた技術が中国や朝鮮半島から当時の日本(倭)に渡って来た人々によって伝えられたことを示しています。デザインや構造は日本だけで見られるものもあり、その後の日本庭園につながる最も古い庭園といえます。
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飛鳥水落遺跡
飛鳥水落遺跡
飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)は、日本で一番古い水時計台のあとです。漏刻台(ろうこくだい)という水時計は、階段状になった水そうの一番上の段から水を流し、一番下の段の水そうの目盛りの上がり具合によって時間を観測するしくみだったと考えられています。
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酒船石遺跡
酒船石遺跡
酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は、飛鳥宮の近くにある丘に造られたまつりごとが行われた施設のあとです。まつりごとというのは、先祖や神様をまつる祭祀(さいし)や政治のことをさします。丘の周囲には石垣がめぐり、丘のふもとには地面の下から水をひく施設や亀の形をした石の水槽などがあり、丘の上に登ると酒船石という大きな石があります。酒船石がどのように使われたものなのかは今でも謎に包まれていますが、天皇によってまつりごとが行われた跡だと考えられています。
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飛鳥寺跡
飛鳥寺跡
飛鳥寺跡(あすかでらあと)は、日本で初めて本格的に建てられた仏教のお寺の跡です。中国や朝鮮半島との交流によって日本に伝わった仏教は、古代日本における国づくりに大きな役割を果たしました。飛鳥寺が建てられるときには、朝鮮半島からやってきた渡来人(とらいじん)という人々や、当時の日本(倭)から中国の知識や技術を学ぶために海を渡りふたたび日本に帰ってきた留学生(るがくしょう)・学問僧(がくもんそう)という人々が伝えた技術が使われました。渡来人によって造られた飛鳥大仏は、今もその位置を変えずに残っています。
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橘寺跡
橘寺跡
橘寺跡(たちばなでらあと)は、日本できわめて古い、尼僧(にそう:出家して仏門にはいった女性)が住んだお寺の跡です。建物の並び方から、当時の朝鮮半島にあった百済(くだら)という国の影響を受けたことがわかります。これまでに2度焼けてしまいましたが、修理をしたり建て直しがなされ、今は僧のお寺として受けつがれています。
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山田寺跡
山田寺跡
山田寺跡(やまだでらあと)は、飛鳥時代に絶大な権力をもった蘇我氏によって建てられたお寺の遺跡です。発掘調査によって見つかった回廊(宮殿やお寺の建物の周りを取り囲む長い廊下)の一部は、法隆寺(ほうりゅうじ)よりも古い建築の様式を伝えており、飛鳥資料館に展示されています。
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川原寺跡
川原寺跡
川原寺跡(かわらでらあと)は、天智天皇が亡くなった母である斉明天皇のために建てた仏教のお寺の跡です。建物の位置関係などから、当時の中国である唐の影響があったことがわかります。のちの文武天皇の時代には、大官大寺、薬師寺、飛鳥寺とともに四大寺の一つとされました。
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檜隈寺跡
檜隈寺跡
檜前寺跡(ひのくまでらあと)は、中国・朝鮮半島から海を渡ってきた渡来人の豪族(地域で力をもった一族)の中心地に造られた仏教のお寺の跡です。建物の並び方は他にないオリジナルのものですが、瓦を使った建物の基礎のつくりは朝鮮半島にあった百済(くだら)という国のお寺でもよく見られ、東アジアとの交流があったことがわかります。
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石舞台古墳
石舞台古墳
石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、明日香村にある縦と横が50mの正方形の形をした古墳(方墳)です。お墓を囲んだ巨大な石の天井が見えているのが特徴です。墳丘がとても大きいことから、蘇我馬子(そがのうまこ)のお墓であるという説があります。江戸時代にはすでに観光名所として知られていました。
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菖蒲池古墳
菖蒲池古墳
菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)は、飛鳥宮跡などがある飛鳥盆地から見て西の方にある丘の斜面(しゃめん)に造られた古墳(方墳)です。当時の中国の皇帝(王様)のためにつくられた古墳と同じ形をしていたことから、飛鳥時代に大きな力を持った人のお墓だと考えられています。
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牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、飛鳥宮跡などがある飛鳥盆地から見て南西の方につくられた古墳(八角墳)です。八角形の形をしたお墓は、天皇を頂点とした国家の確立を目指し、日本独自のアイデアで生み出されました。お墓の形が日本独自でありながら、お墓をつくる技術や思想は東アジアの大陸から取り入れられた、他では例を見ない古墳です。
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藤原宮跡
藤原宮跡
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、当時の中国や朝鮮半島との交流によって、「律令」という法律にもとづく天皇を中心とした国家が日本で生まれたことを示す宮殿のあとです。藤原宮という宮殿には、天皇の住まいや政治を行う場所、役人がはたらく場所が集まっていました。藤原宮の周りには、藤原京がつくられ、役人らの住まいなどが広がっていました。藤原京朱雀大路は、宮殿に通じる道としてつくられ、藤原宮は藤原京の中央に置かれました。
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大和三山(香具山)
大和三山(香具山)
大和三山(やまとさんざん)は、藤原宮の場所を決めるのに重要な役割をもった三つの山です。そのうちの一つである香具山(かぐやま)は、藤原宮の東にあり、『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』という歴史書や歌集において「天香具山」と呼ばれ、天とつながった特別な山という認識をされていました。
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大和三山(畝傍山)
大和三山(畝傍山)
大和三山(やまとさんざん)は、藤原宮の場所を決めるのに重要な役割をもった三つの山です。そのうちの一つである畝傍山(うねびやま)は、藤原宮の西にあり、初代天皇である神武天皇のお墓がつくられるなど、建国神話と強く結びついた山です。
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大和三山(耳成山)
大和三山(耳成山)
大和三山(やまとさんざん)は、藤原宮の場所を決めるのに重要な役割をもった三つの山です。そのうちの一つである耳成山(みみなしやま)は、藤原宮の北に位置し、なだらかな三角コーンのような美しい形をしています。
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大官大寺跡
大官大寺跡
大官大寺跡(だいかんだいじあと)は、藤原宮の南東にある、国家によって造られたお寺のあとです。「飛鳥・藤原」で最も大きく、お寺を構成した建物のなかでも特に九重塔は東アジアの国ぐに(唐・百済・新羅・高句麗)に共通する国家のシンボルでした。710年に藤原京から平城京に都を引っ越した時に大官大寺も一緒に場所をうつすこととなり、平城京大安寺としていまも引き継がれています。
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本薬師寺跡
本薬師寺跡
本薬師寺跡(もとやくしじあと)は、藤原宮の南西にある、国家によって造られたお寺のあとです。天武天皇が皇后(天武天皇の妻で、のちの持統天皇)の病気が治るように祈って建てられましたが、完成する前に天武天皇は亡くなり、遺志を継いだ持統天皇によってお寺の建築が進められ、次の文武天皇の時代に完成しました。710年における平城京への都の引っ越し後には薬師寺としてうつされ、いまも引き継がれています。
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天武・持統天皇陵古墳
天武・持統天皇陵古墳
天武・持統天皇陵古墳(てんむ・じとうてんのうりょうこふん)は、藤原京をつくることを計画した天武天皇と皇后の持統天皇が一緒にほうむられたお墓です。飛鳥時代に、天皇のお墓にだけ許されたとされる八角形の形をしています。藤原宮の真ん中を縦に走る朱雀大路という道の真南にあり、お墓と宮殿を一体として造られたことを示しています。
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中尾山古墳
中尾山古墳
中尾山古墳(なかおやまこふん)は、明日香村にある八角形のお墓です。八角形という最も高い位に位置づけられる形をしていることと、単独で火葬(かそう)によってほうむられていることから、文武天皇のお墓ではないかと考えられています。火葬であることに加え、お墓のつくりからも仏教の影響が色濃く見られます。
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キトラ古墳
キトラ古墳
キトラ古墳は、藤原宮の南方にある古墳(円墳)です。東アジアで今も残る最も古い天文図を伝えるお墓で、この天文図は中国で観測されたことがわかっています。お墓のかべに描かれた絵(壁画)には、天文図の他に、四神や十二支、日月が描かれており、壁画は大切に守るために一時的に取り外され保管されています。また、古墳のつくりから、中国や朝鮮半島の土木技術の影響があったことがわかります。
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高松塚古墳
高松塚古墳
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、藤原宮の南方にある古墳です。お墓のかべに描かれた絵(壁画)には、中国の古くから続く思想にもとづいた、男女それぞれの人物群像や四神、星宿図という星座が描かれました。石で囲まれたお墓のかべに描かれた女子群像は、環境によって変化してしまったのち、約12年間にわたる修理によって元に近い姿によみがえり、「文化財を守り伝えること」を象徴する存在として位置づけられています。
世界遺産ってなに?
人間や地球が生み出した、未来へ伝えていくべきかけがえのない宝物。建物や遺跡といった「文化遺産」、貴重な動植物の生息地といった「自然遺産」、その両方をあわせもつ「複合遺産」の3種類があります。
各国がすすめる候補の中から、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が登録するかどうかを決めます。
今※、世界で1223件が登録されていて、これらを各国は大切に守っていかなければなりません。そのうち日本からは文化遺産21件、自然遺産5件の計26件の世界遺産が登録されています。
※2024年8月現在
もっと知りたい
Q&A
天皇が住む宮殿についても、儀式と政治の場であったものが、役所の機能が追加・統合されるようになっていきました。
また、長い間の発掘調査の成果によって、これらの歴史書の中に書かれているできごとの舞台が「飛鳥・藤原」であることがわかるのです。
用語辞典
「飛鳥・藤原」をより詳しく知るための用語を解説するよ!
組織
国連〔国際連合(こくさいれんごう)〕 | 世界の平和を維持することや、国どうしの争いを解決すること、人権を守ることなどを目的として設置された組織です。2024年2月現在、世界には196の国がありますが、そのうち193カ国が国連に参加しています。 |
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ユネスコ〔国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)〕 | 教育、科学、文化での協力と交流を通じて、国際平和と人類の幸福を実現することを目的とした、国際連合の専門機関の一つです。ユネスコの仕事は教育や文化などたくさんの分野があり、世界遺産の登録も仕事のひとつです。ユネスコでは世界遺産委員会という組織を設置して、世界遺産登録をしてもよいかどうかの話し合いをしています。 |
国
隋(ずい)・唐(とう) | 隋(581~618年)、唐(618~907年)は今から1100~1400年あまり昔に、今の中国にあった国です。律令という法律によって、皇帝(中国における王様)を中心とした政治が行われていました。当時の日本よりも進んだ文化や技術をもっていたので、日本は役人を派遣し、先進の文化や技術を取り入れ、隋や唐に追いつこうとしていました。 |
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高句麗(こうくり) ・百済(くだら) | 高句麗(紀元前1世紀頃~668年)、百済(4世紀半ば~660年)は、今から1400~2000年あまり昔に、今の朝鮮半島から中国の東北部にかけてあった国です。当時の日本よりも進んだ科学技術や、仏教思想をもっており、高句麗や百済から日本に渡った僧によって、お寺を建てるための知識や技術が伝えられました。また、当時日本に移り住んだ人々からも知識が伝えられ、天皇を中心とした国づくりの整備が進みました。 |
歴史用語
宮都(きゅうと) | 天皇の住まいと、そのまわりに広がる役所や役人の家などを含むまちのことです。現在の明日香村や橿原市には、飛鳥宮・藤原京がつくられました。飛鳥時代の宮都は、当時の首都であるとともに、国を治める体制を象徴するものでした。 |
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律令(りつりょう) | 古代の中国でつくられた法律のことです。「律」は罪をおかした人を罰する法律で、「令」は国や政治の仕組みを定めた法律でした。日本は中国に役人を送り、律令をふくめた先進の文化や技術を取り入れました。その結果、飛鳥時代の日本でも、「大宝律令」という法律がつくられました。 |
古墳(こふん) | 古代の社会で、大王や天皇、豪族などの支配階級にいた人々をほうむるために、土を高く盛ってつくったお墓のことです。四角形や八角形、丸形の古墳や、四角形と円形が前後に組み合わさった古墳などがつくられました。 |
宮殿(きゅうでん) | 天皇の住まいや政治、儀式が行われていた建物のことです。現在の明日香村や橿原市には、飛鳥時代に宮殿が建てられた場所があります。 |
天皇(てんのう) (※飛鳥時代における) | 7世紀後半に成立した、それまで大王と呼んでいた存在のことです。天皇は、宮殿に住み、国の統治を行いました。 |
遺跡(いせき) | 昔の活動の跡が、地上あるいは地面の下に残されている場所です。例えば、古い時代の建物が建っていた跡や、古代の人々がほうむられた古墳などのことです。 |
仏教(ぶっきょう) | 2500年ほど昔に、インドのブッダという人がつくった宗教のことです。仏教は、インドから中国、そして中国から朝鮮半島へと伝わり、日本には6世紀中ごろに伝わりました。 |
条坊制(じょうぼうせい) | 古代中国の首都を参考にしたまちづくりのことで、土地を東西・南北に通る道で区切り、マス目状のまちをつくることをいいます。 |
できごと
乙巳の変(いっしのへん) 大化の改新(たいかのかいしん) | 飛鳥時代、蘇我氏は政治を左右する権力をもち、自分たちの有利なように政治を行っていました。そのような状況を変えるために、645年に、中大兄皇子が当時の権力者であった蘇我入鹿を倒しました。これが乙巳の変です。乙巳の変は、現在の明日香村にある、飛鳥宮跡で起こったとされています。乙巳の変の後、豪族中心の政治から、天皇中心の政治に変えていったことを大化の改新といいます。 |
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壬申の乱(じんしんのらん) | 天智天皇が亡くなった後の天皇の座をめぐり、天智天皇の弟である大海人皇子と天智天皇の子である大友皇子の間で争いが起こりました。この争いは日本古代では最大の戦いであり、奈良県・滋賀県・岐阜県・三重県が戦いの舞台となりました。これが壬申の乱です。壬申の乱に勝った大海人皇子は天武天皇となり、新しい国づくりを進めました。 |
人物
推古天皇(すいこてんのう) | 推古天皇は即位前の名を額田部皇女といいます。額田部皇女は、39歳で天皇に即位し、日本初の女性天皇となりました。推古天皇の政治は、甥の聖徳太子と叔父の蘇我馬子に支えられていました。特に聖徳太子を中心に定められたとされる冠位十二階や憲法十七条は、日本を天皇中心の国家にしようとする表れでした。また、当時の中国(隋)に遣隋使を派遣して、隋の文化や技術、法律を政治に反映しようとしました。 |
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聖徳太子(しょうとくたいし) | 幼少期から非常に賢く、伯母の推古天皇が天皇になると、20歳の若さで摂政として政治の実権を握りました。蘇我馬子とともに政治を行い、中国の進んだ文化や制度を採り入れ、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を進めました。また、仏教を積極的に取り入れ、法隆寺を創建しました。私たちが呼んでいる「聖徳太子」という名前は、功績を称えて後世の人々が呼び出したもので、生前の名前は厩戸王でした。名前の由来は、馬小屋の前で生まれたからとも、地名からとったとも言われています。 |
蘇我馬子(そがのうまこ) | 蘇我氏は飛鳥時代の日本の政治を左右した存在です。蘇我馬子も政治に強い権力をもち、実権を握っていました。日本に仏教を根付かせるために、聖徳太子とともに物部氏と争い、勝利しました。この戦いの勝利により、飛鳥に飛鳥寺など多くの寺院が建てられました。 |
天智天皇(てんじてんのう) | 天智天皇は即位前の名前を中大兄皇子といいます。645年、蘇我氏が横暴な政治をしたために、蘇我氏を倒し、国の改革を進めました。これが大化の改新です。大化の改新により、それまでの豪族中心の政治から、天皇中心の政治に変わっていきました。弟は天武天皇(大海人皇子)で、娘は持統天皇(鸕野讃良皇女)です。 |
天武天皇(てんむてんのう) | 天武天皇は即位前の名前を大海人皇子といい、日本古代最大の戦乱である壬申の乱で甥である大友皇子を破り、673年に天皇に即位しました。皇族がリーダーシップをとる政治体制の確立に向けて、律令(法律)の制定に着手し、歴史書の作成を命じるなど、国の基礎をつくる政治を行いました。兄は大化の改新を実行した天智天皇(中大兄皇子)で、妻は後の天皇である持統天皇(鸕野讃良皇女)です。 |
持統天皇(じとうてんのう) | 持統天皇は即位前の名前を鸕野讃良皇女といい、父は大化の改新を実行した中大兄皇子です。13歳のときに大海人皇子(中大兄皇子の弟)の妻となり、壬申の乱(672年)を経て大海人皇子が即位すると(天武天皇)、その皇后になりました。天武天皇の崩御後、しばらくして即位し、飛鳥浄御原令という法律にしっかりと基づいた統治を行い、藤原京を造って新しい都としました。 |
渡来人(とらいじん) | 外国から海を渡って、日本に住みついた人のことです。飛鳥時代には、朝鮮半島や中国からたくさんの人々が海を渡り,日本に来ていました。渡来人は、仏教や建築技術など、進んだ大陸文化を日本に伝えました。 |