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飛鳥あすか藤原ふじわら」ってなに?

今から1400~1300年前の飛鳥時代あすかじだいには、中国や朝鮮半ちょうせん島の国ぐにとさまざまな交流が行われていました。わたしたちの祖先そせんは、中国や朝鮮半ちょうせん島から伝わってきた新しい文化や社会の仕組みを取り入れ、それまでの伝統的でんとうてきな文化と組み合わせて発展はってんさせ、新しい国の基礎きそをつくり上げました。

かつて「飛鳥あすか」と「藤原ふじわら」と呼ばれた地域(現在の橿原市、桜井市、明日香村)には、このころにできた宮殿きゅうでん、寺院、庭園、古墳こふんなど地面の下にねむ遺跡いせきがたくさんあります。

「日本」誕生たんじょう記憶きおくきざまれている「飛鳥あすか藤原ふじわらを、
未来みらいつたえていくべき宝物たからものとして世界遺産いさんへの登録とうろくを目指しています

飛鳥あすか時代じだいってどんな時代?

592年、推古天皇すいこてんのう飛鳥あすかの{brsp}地で天皇てんのうくらいにつきまし{brsp}た。その後、都が飛鳥あすかふじ{brsp}わらから平城京へいじょうきょううつる710年{brsp}までのやく120年間を飛鳥時代あすかじだいんでいます。
この時代じだいに、乙巳いっしへん壬申じんしんらんといった大きな出来事が起こり、聖徳太子しょうとくたいし蘇我馬子そがのうまこ天智天皇てんじてんのう天武天皇てんむてんのう・{brsp}持統天皇じとうてんのうが、新しい国づくりをめざし活躍かつやくしました。

仏教ぶっきょうが広がる

飛鳥時代あすかじだいには、飛鳥の地で日本初の寺院が建立こんりゅうされ、仏教ぶっきょうが広まりはじめました。飛鳥寺あすかでら橘寺たちばなでら、山田寺、川原寺かわらでらなどは、中国や朝鮮ちょうせん半島からつたわった新しい技術ぎじゅつによっててられました。

藤原京ふじわらきょう完成かんせい

大和やまと三山(香具山かぐやま畝傍山うねびやま耳成山みみなしやま)にかこまれた藤原ふじわら宮という王宮を中心に、日本ではじめてマス目じょうに道をはりめぐらせた大都市となる、藤原京ふじわらきょうをつくりました。

律令りつりょう国家のはじまり

つみをおかした人をばっする「りつ」と国や政治せいじのしくみを定めた「りょう」を持つ「律令りつりょう国家」をつくりました。

構成資産こうせいしさん

「飛鳥・藤原の宮都きゅうと」は、約100年間におよぶ飛鳥時代において、「日本」のはじまりとして国が形づくられたことを表す文化遺産です。宮殿きゅうでん寺院、じいん庭園ていえん古墳こふんといった22の遺跡いせきなどで構成こうせいされています。

  • 飛鳥宮跡

    飛鳥宮跡

    飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)は、天皇の住まいと政治を行う場所が一緒になった宮殿のあとです。現在の明日香村に建てられました。それまでは天皇がかわるごとに王宮を引っ越しさせていましたが、飛鳥宮がつくられた630年から藤原京という大規模な都にうつるまでの間は、天皇がかわってもほとんど同じ場所に宮殿が建てられました。

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    飛鳥京跡苑池

    飛鳥京跡苑池

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    飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)は、飛鳥宮にとなりあう場所にある庭園のあとです。南池と北池があり、高い技術を用いて石で作られた噴水やとても大きな石槽が置かれました。中国や朝鮮半島でも、飛鳥京跡苑池の一部と似た技術が使われており、苑池に使われた技術が中国や朝鮮半島から当時の日本(倭)に渡って来た人々によって伝えられたことを示しています。デザインや構造は日本だけで見られるものもあり、その後の日本庭園につながる最も古い庭園といえます。

  • 飛鳥水落遺跡

    飛鳥水落遺跡

    飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)は、日本で一番古い水時計台のあとです。漏刻台(ろうこくだい)という水時計は、階段状になった水そうの一番上の段から水を流し、一番下の段の水そうの目盛りの上がり具合によって時間を観測するしくみだったと考えられています。

  • 酒船石遺跡

    酒船石遺跡

    酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は、飛鳥宮の近くにある丘に造られたまつりごとが行われた施設のあとです。まつりごとというのは、先祖や神様をまつる祭祀(さいし)や政治のことをさします。丘の周囲には石垣がめぐり、丘のふもとには地面の下から水をひく施設や亀の形をした石の水槽などがあり、丘の上に登ると酒船石という大きな石があります。酒船石がどのように使われたものなのかは今でも謎に包まれていますが、天皇によってまつりごとが行われた跡だと考えられています。

  • 飛鳥寺跡

    飛鳥寺跡

    飛鳥寺跡(あすかでらあと)は、日本で初めて本格的に建てられた仏教のお寺の跡です。中国や朝鮮半島との交流によって日本に伝わった仏教は、古代日本における国づくりに大きな役割を果たしました。飛鳥寺が建てられるときには、朝鮮半島からやってきた渡来人(とらいじん)という人々や、当時の日本(倭)から中国の知識や技術を学ぶために海を渡りふたたび日本に帰ってきた留学生(るがくしょう)・学問僧(がくもんそう)という人々が伝えた技術が使われました。渡来人によって造られた飛鳥大仏は、今もその位置を変えずに残っています。

  • 橘寺跡

    橘寺跡

    橘寺跡(たちばなでらあと)は、日本できわめて古い、尼僧(にそう:出家して仏門にはいった女性)が住んだお寺の跡です。建物の並び方から、当時の朝鮮半島にあった百済(くだら)という国の影響を受けたことがわかります。これまでに2度焼けてしまいましたが、修理をしたり建て直しがなされ、今は僧のお寺として受けつがれています。

  • 山田寺跡

    山田寺跡

    山田寺跡(やまだでらあと)は、飛鳥時代に絶大な権力をもった蘇我氏によって建てられたお寺の遺跡です。発掘調査によって見つかった回廊(宮殿やお寺の建物の周りを取り囲む長い廊下)の一部は、法隆寺(ほうりゅうじ)よりも古い建築の様式を伝えており、飛鳥資料館に展示されています。

  • 川原寺跡

    川原寺跡

    川原寺跡(かわらでらあと)は、天智天皇が亡くなった母である斉明天皇のために建てた仏教のお寺の跡です。建物の位置関係などから、当時の中国である唐の影響があったことがわかります。のちの文武天皇の時代には、大官大寺、薬師寺、飛鳥寺とともに四大寺の一つとされました。

  • 檜隈寺跡

    檜隈寺跡

    檜前寺跡(ひのくまでらあと)は、中国・朝鮮半島から海を渡ってきた渡来人の豪族(地域で力をもった一族)の中心地に造られた仏教のお寺の跡です。建物の並び方は他にないオリジナルのものですが、瓦を使った建物の基礎のつくりは朝鮮半島にあった百済(くだら)という国のお寺でもよく見られ、東アジアとの交流があったことがわかります。

  • 石舞台古墳

    石舞台古墳

    石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、明日香村にある縦と横が50mの正方形の形をした古墳(方墳)です。お墓を囲んだ巨大な石の天井が見えているのが特徴です。墳丘がとても大きいことから、蘇我馬子(そがのうまこ)のお墓であるという説があります。江戸時代にはすでに観光名所として知られていました。

  • 菖蒲池古墳

    菖蒲池古墳

    菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)は、飛鳥宮跡などがある飛鳥盆地から見て西の方にある丘の斜面(しゃめん)に造られた古墳(方墳)です。当時の中国の皇帝(王様)のためにつくられた古墳と同じ形をしていたことから、飛鳥時代に大きな力を持った人のお墓だと考えられています。

  • 牽牛子塚古墳

    牽牛子塚古墳

    牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、飛鳥宮跡などがある飛鳥盆地から見て南西の方につくられた古墳(八角墳)です。八角形の形をしたお墓は、天皇を頂点とした国家の確立を目指し、日本独自のアイデアで生み出されました。お墓の形が日本独自でありながら、お墓をつくる技術や思想は東アジアの大陸から取り入れられた、他では例を見ない古墳です。

  • 藤原宮跡

    藤原宮跡

    藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、当時の中国や朝鮮半島との交流によって、「律令」という法律にもとづく天皇を中心とした国家が日本で生まれたことを示す宮殿のあとです。藤原宮という宮殿には、天皇の住まいや政治を行う場所、役人がはたらく場所が集まっていました。藤原宮の周りには、藤原京がつくられ、役人らの住まいなどが広がっていました。藤原京朱雀大路は、宮殿に通じる道としてつくられ、藤原宮は藤原京の中央に置かれました。

  • 大和三山(香具山)

    大和三山(香具山)

    大和三山(やまとさんざん)は、藤原宮の場所を決めるのに重要な役割をもった三つの山です。そのうちの一つである香具山(かぐやま)は、藤原宮の東にあり、『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』という歴史書や歌集において「天香具山」と呼ばれ、天とつながった特別な山という認識をされていました。

  • 大和三山(畝傍山)

    大和三山(畝傍山)

    大和三山(やまとさんざん)は、藤原宮の場所を決めるのに重要な役割をもった三つの山です。そのうちの一つである畝傍山(うねびやま)は、藤原宮の西にあり、初代天皇である神武天皇のお墓がつくられるなど、建国神話と強く結びついた山です。

  • 大和三山(耳成山)

    大和三山(耳成山)

    大和三山(やまとさんざん)は、藤原宮の場所を決めるのに重要な役割をもった三つの山です。そのうちの一つである耳成山(みみなしやま)は、藤原宮の北に位置し、なだらかな三角コーンのような美しい形をしています。

  • 大官大寺跡

    大官大寺跡

    大官大寺跡(だいかんだいじあと)は、藤原宮の南東にある、国家によって造られたお寺のあとです。「飛鳥・藤原」で最も大きく、お寺を構成した建物のなかでも特に九重塔は東アジアの国ぐに(唐・百済・新羅・高句麗)に共通する国家のシンボルでした。710年に藤原京から平城京に都を引っ越した時に大官大寺も一緒に場所をうつすこととなり、平城京大安寺としていまも引き継がれています。

  • 本薬師寺跡

    本薬師寺跡

    本薬師寺跡(もとやくしじあと)は、藤原宮の南西にある、国家によって造られたお寺のあとです。天武天皇が皇后(天武天皇の妻で、のちの持統天皇)の病気が治るように祈って建てられましたが、完成する前に天武天皇は亡くなり、遺志を継いだ持統天皇によってお寺の建築が進められ、次の文武天皇の時代に完成しました。710年における平城京への都の引っ越し後には薬師寺としてうつされ、いまも引き継がれています。

  • 天武・持統天皇陵古墳

    天武・持統天皇陵古墳

    天武・持統天皇陵古墳(てんむ・じとうてんのうりょうこふん)は、藤原京をつくることを計画した天武天皇と皇后の持統天皇が一緒にほうむられたお墓です。飛鳥時代に、天皇のお墓にだけ許されたとされる八角形の形をしています。藤原宮の真ん中を縦に走る朱雀大路という道の真南にあり、お墓と宮殿を一体として造られたことを示しています。

  • 中尾山古墳

    中尾山古墳

    中尾山古墳(なかおやまこふん)は、明日香村にある八角形のお墓です。八角形という最も高い位に位置づけられる形をしていることと、単独で火葬(かそう)によってほうむられていることから、文武天皇のお墓ではないかと考えられています。火葬であることに加え、お墓のつくりからも仏教の影響が色濃く見られます。

  • キトラ古墳

    キトラ古墳

    キトラ古墳は、藤原宮の南方にある古墳(円墳)です。東アジアで今も残る最も古い天文図を伝えるお墓で、この天文図は中国で観測されたことがわかっています。お墓のかべに描かれた絵(壁画)には、天文図の他に、四神や十二支、日月が描かれており、壁画は大切に守るために一時的に取り外され保管されています。また、古墳のつくりから、中国や朝鮮半島の土木技術の影響があったことがわかります。

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳

    高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、藤原宮の南方にある古墳です。お墓のかべに描かれた絵(壁画)には、中国の古くから続く思想にもとづいた、男女それぞれの人物群像や四神、星宿図という星座が描かれました。石で囲まれたお墓のかべに描かれた女子群像は、環境によって変化してしまったのち、約12年間にわたる修理によって元に近い姿によみがえり、「文化財を守り伝えること」を象徴する存在として位置づけられています。

世界遺産いさんってなに?

人間にんげん地球ちきゅうが生み出した、未来みらいつたえていくべきかけがえのない宝物たからもの建物たてもの遺跡いせきといった「文化遺産いさん」、ちょうな動植物の生息地といった「自然遺産しぜんいさん」、その両方をあわせもつ「複合遺産ふくごういさん」の3種類しゅるいがあります。

各国かっこくがすすめる候補こうほの中から、国連教こくれん育科学文化機関きかん(ユネスコ)が登録とうろくするかどうかを決めます。
今※、世界で1223けん登録とうろくされていて、これらを各国かっこくは大切に守っていかなければなりません。そのうち日本からは文化遺産いさん21けん自然しぜん遺産5けんの計26けんの世界遺産いさん登録とうろくされています。

※2024年8月現在げんざい

もっと知りたい

Q&A

今から1300年前の外国がいこくとの交流こうりゅうによって、仏教ぶっきょうなどの文化ぶんか建築・土木工事けんちく・どぼくこうじ技術ぎじゅつが日本に伝わり、律令制度りつりょうせいどもとづく天皇てんのうを中心とした日本国ができる様子ようすが「飛鳥・藤原」の遺跡いせきから分かることがすごいところです。
天皇を中心とした政治を行うことができる国の体制たいせいのことです。飛鳥時代以前の古墳時代では、大和政権やまとせいけん大王おおきみが各地方の豪族ごうぞく国造くにのみやつことして統率とうそつしていましたが、あまり強いつながりではなく、中央集権国家とはいえないものでした。
仏教ぶっきょう仏教建築ぶっきょうけんちく伝来でんらいするとともに、法律ほうりつかわらの作り方、時間管理じかんかんり概念がいねん漏刻ろうこく(水時計)の技術)、火葬かそうの風習、美術びじゅつ天文てんもんの知識などが伝わりました。これらの文化・技術は、日本から派遣した遣隋使けんずいし遣唐使けんとうしや、ずいとう朝鮮半島ちょうせんはんとうの国々から受け入れた渡来人とらいじんによって、日本に取り入れられたのです。
飛鳥時代には現代げんだいのような立派なふね航海技術こうかいぎじゅつはなかったため、木でできた船で海を渡り、大陸たいりくと交流をしていました。当時の船をつくる技術から推察すいさつすると、遣隋使・遣唐使の船は強風きょうふう荒波あらなみには弱かったと思われ、海外かいがい先進せんしんの文化や技術を取り入れるために、命がけの航海をして大陸と交流をしていたと考えられています。
仏教が日本に入ってきたことによって、豪族ごうぞく私的してきなお寺が数多く建てられるようになり、その後、国がお寺を建てるようになりました。また、それまでの日本の権力者けんりょくしゃは大きな前方後円墳ぜんぽうこうえんふんを造っていましたが、海外の状況をふまえて考え方が変わり、四角形しかくけい八角形はちかっけいのお墓や、丸い形のお墓が作られるようになりました。
天皇が住む宮殿きゅうでんについても、儀式ぎしき政治せいじの場であったものが、役所やくしょの機能が追加・統合とうごうされるようになっていきました。
世界遺産とは、過去から現在へと引き継がれ、そして私たちが未来の世代に引き継いでいくべきかけがえのない宝物です。「飛鳥・藤原」を人類共通じんるいきょうつうの宝物として未来の世代にのこしていくために、世界遺産登録をすすめています。
720年に完成した「日本書紀にほんしょき」という歴史書れきししょや、797年に完成した「続日本紀しょくにほんぎ」という歴史書に、1300年前に起こったできごとが書かれています。
また、長い間の発掘調査の成果によって、これらの歴史書の中に書かれているできごとの舞台ぶたいが「飛鳥・藤原」であることがわかるのです。
「日本書紀」は日本ではじめて作られた正式な歴史書です。天武天皇てんむてんのうが681年に歴史書の作成を命じてつくられました。完成まで約40年もの歳月さいげつがかかる大変な作業さぎょうでした。当時はまだ「ひらがな」や「カタカナ」がなかったので、漢文かんぶん(中国の文体。漢字だけの文章)で書かれていました。皆さんが使っている教科書に書かれているできごとは、「日本書紀」に書かれている内容なんですよ。
地面の下には、昔の人たちの生活の痕跡こんせきとなる遺構いこう遺物いぶつがたくさん残っています。それらを実際に掘って調べることが発掘調査です。発掘調査を行い、研究をする学問が考古学こうこがくです。発掘してわかったものを解析かいせきした結果、歴史書に書かれていることが本当であることがわかったり、それまでの教科書の内容や常識が変わることもあるのです。「飛鳥・藤原」の地域には、まだ発見されていない遺跡や、木簡もっかんかわらなどの遺物いぶつが数多く地下に眠っています。
1300年あまり前の「藤原京」が首都しゅとであった時代、「大宝律令たいほうりつりょう」という法律により政治の仕組みが出来上がり、国としての体裁ていさいが整えられました。この頃、唐(当時の中国)に渡った遣唐使がはじめて「日本」という国号こくごうをつかいました。それまで日本は「」といわれていました。
貴族きぞくは白米を主食しゅしょくとし、たいあゆ煮付につけや野菜、めずらしいものでは(牛乳を加熱して作ったチーズ)などを食べていました。庶民しょみんは玄米を主食とし、青菜あおな山菜さんさい副食ふくしょくにしていたのではないかといわれています。
貴族は豪華ごうかな屋敷に住んでいましたが、庶民は簡素かんそ掘立柱建物ほったてばしらたてものや古墳時代とあまり変わらず、田や畑の近くに竪穴式住居たてあなしきじゅうきょを作って住んでいました。
中国では618年にずいという国が滅亡めつぼうし、とうという国がつくられました。それまでは国内が分裂ぶんれつして争いがあったのですが、唐の時代は中国史の中でもはなやかな文化が花開き、都の長安ちょうあん国際都市こくさいとしとして繁栄はんえいしました。中東ちゅうとうでは610年頃、ムハンマドという予言者よげんしゃが、現在も続くイスラム教という宗教を創始そうししました。ヨーロッパでは、フランク王国という国が勢力せいりょくを伸ばし、政治の中心となりました。この王国のもとで、現在のドイツ、フランス、イタリアの基礎きそが形作られました。
ヨーロッパは「石の文化」の歴史であり、建物たてものなどが石でできているため、遺跡が残っていることが多いのですが、日本は「木と土の文化」の歴史であるため、建物などは燃えたりこわされたりして残りにくいのです。
「飛鳥・藤原」が人類全体にとって重要なものであることや、将来世代しょうらいせだいにわたってきちんと遺跡などを守っていくことができることを、ユネスコに認めてもらうことが必要ひつようです。政府からユネスコへ推薦書すいせんしょ提出ていしゅつした後、ユネスコの世界遺産委員会で登録できるかどうかが話し合われます。

用語ようご辞典じてん 

「飛鳥・藤原」をより詳しく知るための用語を解説するよ!

組織

国連〔国際連合(こくさいれんごう)〕世界の平和を維持いじすることや、国どうしの争いを解決かいけつすること、人権じんけんを守ることなどを目的として設置された組織そしきです。2024年2月現在、世界には196の国がありますが、そのうち193カ国が国連に参加しています。
ユネスコ〔国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)〕教育、科学、文化での協力と交流こうりゅうを通じて、国際平和と人類の幸福こうふく実現じつげんすることを目的とした、国際連合の専門機関せんもんきかんの一つです。ユネスコの仕事は教育や文化などたくさんの分野があり、世界遺産の登録も仕事のひとつです。ユネスコでは世界遺産委員会という組織そしきを設置して、世界遺産登録をしてもよいかどうかの話し合いをしています。

隋(ずい)・唐(とう)ずい(581~618年)、とう(618~907年)は今から1100~1400年あまり昔に、今の中国にあった国です。律令という法律によって、皇帝こうてい(中国における王様)を中心とした政治が行われていました。当時の日本よりも進んだ文化や技術をもっていたので、日本は役人やくにん派遣はけんし、先進の文化や技術を取り入れ、隋や唐に追いつこうとしていました。
高句麗(こうくり)
・百済(くだら)
高句麗(紀元前1世紀頃~668年)、百済(4世紀半ば~660年)は、今から1400~2000年あまり昔に、今の朝鮮半島から中国の東北部にかけてあった国です。当時の日本よりも進んだ科学技術や、仏教思想をもっており、高句麗や百済から日本に渡った僧によって、お寺を建てるための知識や技術が伝えられました。また、当時日本に移り住んだ人々からも知識が伝えられ、天皇を中心とした国づくりの整備が進みました。

歴史用語

宮都(きゅうと)天皇てんのうの住まいと、そのまわりに広がる役所や役人の家などを含むまちのことです。現在の明日香村あすかむら橿原市かしはらしには、飛鳥宮・藤原京がつくられました。飛鳥時代の宮都は、当時の首都しゅとであるとともに、国を治める体制を象徴しょうちょうするものでした。
律令(りつりょう)古代の中国でつくられた法律のことです。「律」は罪をおかした人を罰する法律で、「令」は国や政治の仕組みを定めた法律でした。日本は中国に役人を送り、律令をふくめた先進せんしんの文化や技術を取り入れました。その結果、飛鳥時代の日本でも、「大宝律令たいほうりつりょう」という法律がつくられました。
古墳(こふん)古代の社会で、大王や天皇、豪族などの支配階級しはいかいきゅうにいた人々をほうむるために、土を高く盛ってつくったお墓のことです。四角形や八角形、丸形の古墳や、四角形と円形が前後に組み合わさった古墳などがつくられました。
宮殿(きゅうでん)天皇の住まいや政治せいじ儀式ぎしきが行われていた建物のことです。現在の明日香村や橿原市には、飛鳥時代に宮殿が建てられた場所があります。
天皇(てんのう)
(※飛鳥時代における)
7世紀後半に成立した、それまで大王おおきみと呼んでいた存在のことです。天皇は、宮殿に住み、国の統治を行いました。
遺跡(いせき)昔の活動かつどうあとが、地上ちじょうあるいは地面の下に残されている場所です。例えば、古い時代の建物が建っていた跡や、古代の人々がほうむられた古墳などのことです。
仏教(ぶっきょう)2500年ほど昔に、インドのブッダという人がつくった宗教のことです。仏教は、インドから中国、そして中国から朝鮮半島へと伝わり、日本には6世紀中ごろに伝わりました。
条坊制(じょうぼうせい)古代中国の首都を参考にしたまちづくりのことで、土地を東西とうざい南北なんぼくに通る道で区切くぎり、マス目状のまちをつくることをいいます。

できごと

乙巳の変(いっしのへん)
大化の改新(たいかのかいしん)
飛鳥時代、蘇我氏そがしは政治を左右する権力をもち、自分たちの有利なように政治を行っていました。そのような状況を変えるために、645年に、中大兄皇子なかのおおえのみこが当時の権力者であった蘇我入鹿そがのいるかを倒しました。これが乙巳の変です。乙巳の変は、現在の明日香村にある、飛鳥宮跡で起こったとされています。乙巳の変の後、豪族中心の政治から、天皇中心の政治に変えていったことを大化の改新といいます。
壬申の乱(じんしんのらん)天智天皇が亡くなった後の天皇の座をめぐり、天智天皇の弟である大海人皇子おおあまのみこと天智天皇の子である大友皇子おおとものみこの間で争いが起こりました。この争いは日本古代では最大の戦いであり、奈良県・滋賀県・岐阜県・三重県が戦いの舞台となりました。これが壬申の乱です。壬申の乱に勝った大海人皇子は天武天皇となり、新しい国づくりを進めました。

人物

推古天皇(すいこてんのう)推古天皇は即位前の名を額田部皇女ぬかたべのひめみこといいます。額田部皇女は、39歳で天皇に即位し、日本初の女性天皇となりました。推古天皇の政治は、おいの聖徳太子と叔父の蘇我馬子そがのうまこに支えられていました。特に聖徳太子を中心に定められたとされる冠位かんい十二階や憲法十七条は、日本を天皇中心の国家にしようとする表れでした。また、当時の中国(隋)に遣隋使けんずいしを派遣して、隋の文化や技術、法律を政治に反映はんえいしようとしました。
聖徳太子(しょうとくたいし)幼少期から非常にかしこく、伯母の推古天皇が天皇になると、20歳の若さで摂政せっしょうとして政治の実権じっけんを握りました。蘇我馬子とともに政治を行い、中国の進んだ文化や制度を採り入れ、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を進めました。また、仏教を積極的に取り入れ、法隆寺ほうりゅうじ創建そうけんしました。私たちが呼んでいる「聖徳太子」という名前は、功績を称えて後世の人々が呼び出したもので、生前の名前は厩戸王うまやどのおうでした。名前の由来は、馬小屋うまごやの前で生まれたからとも、地名からとったとも言われています。
蘇我馬子(そがのうまこ)蘇我氏は飛鳥時代の日本の政治を左右した存在です。蘇我馬子も政治に強い権力をもち、実権を握っていました。日本に仏教を根付かせるために、聖徳太子とともに物部氏もののべしと争い、勝利しました。この戦いの勝利により、飛鳥に飛鳥寺など多くの寺院じいんが建てられました。
天智天皇(てんじてんのう)天智天皇は即位前の名前を中大兄皇子なかのおおえのみこといいます。645年、蘇我氏が横暴おうぼうな政治をしたために、蘇我氏を倒し、国の改革を進めました。これが大化の改新です。大化の改新により、それまでの豪族中心の政治から、天皇中心の政治に変わっていきました。弟は天武天皇てんむてんのう(大海人皇子)で、娘は持統天皇じとうてんのう鸕野讃良皇女うののさららのひめみこ)です。
天武天皇(てんむてんのう)天武天皇は即位前の名前を大海人皇子おおあまのみこといい、日本古代最大の戦乱である壬申の乱でおいである大友皇子を破り、673年に天皇に即位しました。皇族がリーダーシップをとる政治体制の確立に向けて、律令(法律)の制定に着手し、歴史書の作成を命じるなど、国の基礎をつくる政治を行いました。兄は大化の改新を実行した天智天皇てんじてんのう(中大兄皇子)で、つまは後の天皇である持統天皇じとうてんのう鸕野讃良皇女うののさららのひめみこ)です。
持統天皇(じとうてんのう)持統天皇は即位前の名前を鸕野讃良皇女うののさららのひめみこといい、父は大化の改新を実行した中大兄皇子です。13歳のときに大海人皇子(中大兄皇子の弟)のつまとなり、壬申の乱(672年)を経て大海人皇子が即位すると(天武天皇)、その皇后になりました。天武天皇の崩御後、しばらくして即位し、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうという法律にしっかりと基づいた統治を行い、藤原京をつくって新しい都としました。
渡来人(とらいじん)外国から海を渡って、日本に住みついた人のことです。飛鳥時代には、朝鮮半島ちょうせんはんとうや中国からたくさんの人々が海を渡り,日本に来ていました。渡来人は、仏教や建築技術けんちくぎじゅつなど、進んだ大陸文化たいりくぶんかを日本に伝えました。