飛鳥・藤原を知る
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Asuka-Fujiwara
構成資産の紹介
「飛鳥・藤原」価値 | 構成資産 | 形成の過程 | |
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「日本国」の形成と成立 | 【宮殿と官衙】 律令国家の中枢機構の形成過程 | 01 飛鳥宮跡 | 律令制による宮殿の形成過程 |
02 飛鳥京跡苑池 | |||
03 飛鳥水落遺跡 | |||
04 酒船石遺跡 | |||
13 藤原宮跡 | 律令制による宮殿の成立 | ||
14 大和三山(香具山) | |||
15 大和三山(畝傍山) | |||
16 大和三山(耳成山) | |||
【仏教寺院】 国家宗教としての仏教寺院の成立 | 05 飛鳥寺跡 | 仏教の受容 | |
06 橘寺跡 | 氏寺の成立 | ||
07 山田寺跡 | |||
08 川原寺跡 | |||
09 檜隈寺跡 | |||
17 大官大寺跡 | 国家寺院の成立 | ||
18 本薬師寺跡 | |||
【墳墓(古墳)】 律令による墓制の変化 | 10 石舞台古墳 | 伝統的な墓制の継承と変質 | |
11 菖蒲池古墳 | |||
12 牽牛子塚古墳 | 新しい墓制への移行・展開 八角墳・壁画古墳 | ||
19 天武・持統天皇陵古墳 | |||
20 中尾山古墳 | |||
21 キトラ古墳 | |||
22 高松塚古墳 |
宮殿・官衙
01 飛鳥宮跡
飛鳥宮跡は、7世紀に建設された4時期(飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮)の宮殿遺跡です。建物配置などから、公的な儀礼・政務の場と私的な居住空間が一体となった宮殿であったことが分かっています。官衙(役所)は、宮殿外郭の内外に分散しており、宮殿内に集約化はされていません。飛鳥宮は、630年に推古天皇の後を継いだ舒明天皇により岡本宮として造られました。それまで、天皇の代替わりごとに場所を変えていた宮殿が一カ所に定着し、その後、板蓋宮、後岡本宮、浄御原宮の4時期にわたり、歴代天皇の宮殿が置かれました。645年の「乙巳の変」で中大兄皇子らが蘇我入鹿を討つなど、日本古代史上の多くの出来事の舞台ともなりました。
02 飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池は、飛鳥宮跡の北西に位置する、飛鳥宮に付属して造園された庭園跡です。斉明天皇の時代である7世紀中頃につくられ、天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694年)まで宮殿付属の庭園として用いられました。苑池は、中堤によって南池と北池が隔てられていますが、中堤に埋設された木樋でつながり、南池から北池へ水が流れる仕組みとなっています。石築の護岸で底にも石が敷かれており、導水施設や噴水施設、巨大な石槽などの芸術性の高い石造物が置かれました。宮殿付属の庭園は、中国のほか朝鮮半島でも確認されており、飛鳥京跡苑池と朝鮮半島の苑池には一部類似性が認められることから、渡来人によって造園技術が伝わったことを示しています。一方で、意匠や構造は日本特有のものもあり、飛鳥京跡苑池はその後の日本庭園につながる最古の事例として意義づけられます。
03 飛鳥水落遺跡
飛鳥水落遺跡は、660年に造られた日本最古の水時計台の遺跡です。甘橿丘の東麓、飛鳥川沿いの平地に位置します。濠に囲まれた石貼りの基壇とその上に建つ総柱建物、さらに基壇内部には木樋が走り、基壇中央には漆塗りの木箱が据えられていました。前例のない構造のこの遺跡は調査の結果、時を告げる漏刻台であることが分かりました。最上段の給水槽から最下段の受水槽に水を流し、最下段の目盛りの上昇によって時間を観測する階段状の漏刻が想定され、唐から伝来し設置されたと考えられています。これらの遺構は、7世紀後半には廃絶しており、近江大津宮への遷宮にともない漏刻も飛鳥から大津へと移されたとみられます。
04 酒船石遺跡
酒船石遺跡は、国家形成の宗教的側面を示す7世紀中頃に造営された祭祀遺跡です。飛鳥宮跡の北東の丘陵に位置します。丘陵の周りを囲んだ石垣、丘陵の上の酒船石、丘陵裾には亀形をした石槽や地下からの湧き水を地上へ導水する湧水施設があります。湧水施設の発見以前は、酒船石の使途は謎に包まれ、酒の醸造などの諸説が唱えられましたが、湧水施設の発見により、その構造や立地などから天皇による国家祭祀遺跡と推定されるようになりました。新たな技術を取り入れた施設でありながらも、古墳時代以来の水の祭祀の性格を引き継いだものと考えられており、我が国の伝統的な文化と外来の技術の融合を示す遺跡といえます。
13 藤原宮跡
- 所在地
- 橿原市高殿町、別所町、醍醐町ほか
- 指定年月日
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1946年11月21日(藤原宮:史跡)
1952年3月29日(藤原宮:特別史跡)
1978年10月4日(藤原京朱雀大路跡:史跡)
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藤原宮跡は、隋・唐(中国)や高句麗・新羅・百済(朝鮮)の諸国との政治的・文化的交流を通じて、「律令」制度に基づいた中央集権国家が日本で誕生したことを証明する宮殿遺跡です。694年、持統天皇は飛鳥浄御原宮から藤原宮へ遷宮しました。約1キロ四方の宮殿は、天皇の居住区のほか、政務や儀式の空間、役所などが集約されており、天皇を中心とした中央集権体制を体現していました。宮殿の周囲には約5キロ四方の都城である藤原京が広がり、官人らが居住していました。京内には仏教による鎮護国家を象徴する2つの官寺(大官大寺・本薬師寺)を藤原宮の南におき、天皇陵や墳墓を京外の南方で宮殿の真南を意識して配置するなど、都市計画においても飛鳥宮からの大幅な発展を示しています。この宮殿や都城の構造は、後の平城京や平安京の原型ともなりました。藤原京は710年に平城京へ遷都し、主要な建物も解体されて遷されました。平城宮大極殿も藤原宮から移築したものといわれています。
14 大和三山(香具山)
後代の宮殿の造営理念にも引き継がれていく三山鎮護の思想により、藤原宮の位置を定める際に重要な役割を担った大和三山のうち、古代の人々が特に神聖視していたのが香具山です。多武峰山系から延びる尾根が風化と浸食を繰り返して形成された独立丘陵です。南麓には飛鳥宮跡や飛鳥寺跡などが所在する飛鳥の盆地が広がります。『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』において、「天香具山」と呼ばれ、天と直結した特別な山と認識されていました。著名な神話である天岩戸伝説の舞台ともされます。また、王権との関係性も強く、『万葉集』には舒明天皇(斉明天皇の夫、天智天皇・天武天皇の父)が香具山から国土を望み、繁栄を予祝した国見の歌も伝わっています。
15 大和三山(畝傍山)
後代の宮殿の造営理念にも引き継がれていく三山鎮護の思想により、藤原宮の位置を定める際に重要な役割を担った大和三山のうち、藤原宮の西に位置し、三山の中で最も標高が高い山(標高199.2m)です。神武天皇の橿原宮や神武天皇陵をはじめとする天皇陵が周辺に造営されるなど、建国神話との結びつきが強い山です。
16 大和三山(耳成山)
後代の宮殿の造営理念にも引き継がれていく三山鎮護の思想により、藤原宮の位置を定める際に重要な役割を担った大和三山のうち、藤原宮の北に位置し、三山の中では最も標高が低く(標高139.7m)、円錐形の美しい姿を見せています。
仏教寺院
05 飛鳥寺跡
飛鳥寺跡は、日本で最初の本格的伽藍を持つ仏教寺院(596年完成)の遺跡です。飛鳥盆地内の、飛鳥宮跡の北に位置しています。地下に良好な状態で埋蔵されている寺院跡の遺跡(遺構・遺物)と、地上に表出している中金堂基壇、中金堂に配置されていた釈迦如来坐像(飛鳥大仏)の土壇、中金堂、講堂の礎石などで構成されています。東アジアの国際交流により、中国、朝鮮半島を経由して日本へと仏教がもたらされました。古代日本の国づくりには、仏教と仏教寺院の存在が大きく関わっていました。
日本に仏教が伝来したのは、6世紀半ばとされます。それより半世紀のち、飛鳥に日本で初めて金堂や講堂、塔、回廊をそろえた寺院・飛鳥寺が造営されました。仏教寺院には、経典に不可欠な漢字のほか、土木、建築、測量、造瓦、金属加工などさまざまな最新技術が含まれていました。中国や朝鮮半島から伝わったこれらの知識や技術は、日本の国づくりの基礎となりました。
寺院造営には朝鮮半島からの渡来人や中国から帰国した留学生、学問僧が大きく関わっていました。寺院の伽藍配置や出土した瓦の種類などに、東アジア諸地域との国際交流の一端を垣間見ることができます。
06 橘寺跡
橘寺跡は、7世紀前葉に造営された百済式伽藍を採用した尼寺跡です。飛鳥盆地の南端部に位置する寺院跡です。北隣には川原寺跡が存在しており、文献史料の記述内容や発掘調査から、日本で最古級の尼寺跡であることがわかっています。出土瓦等から7世紀前葉の創建とみられます。百済の影響を受けて、中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ伽藍配置を持ち、境内から多数出土した塼仏には唐の影響が推定されます。2度の焼失を経たものの、修理や再建が行われ、現在は僧寺として受け継がれています。
07 山田寺跡
山田寺跡は、7世紀中葉に有力氏族である蘇我氏の一族、蘇我倉山田石川麻呂の発願により造営された氏寺の遺跡です。649年に石川麻呂は謀反を疑われて、この山田寺で自害し、造営は一時中断しました。その後、石川麻呂の孫である鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の援助のもと、685年ごろに完成しました。山田寺は中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ、百済の寺院にみられる伽藍配置です。平城京遷都後も隆盛を極め、壮大な伽藍は藤原道長も絶賛したとされます。その後、平安時代後期以降に災害などにより多くの建物を失いました。このうち東側の回廊が倒壊した当時の状態で出土しており、法隆寺よりも古い建築様式を伝えています。この建築部材は奈良文化財研究所飛鳥資料館で常設展示されています。
08 川原寺跡
川原寺跡は、7世紀中頃、亡き母である斉明天皇のため天智天皇が川原宮の故地に建立した、天皇の発願による仏教寺院跡です。飛鳥宮の西に対峙する位置関係にあり、宮殿と寺院の関係を示す代表例となります。朝鮮半島から導入したこれ以前の寺院とは異なり、仏堂を中心とした一塔二金堂式の伽藍配置を持ちます。伽藍の造営尺度や塼仏による堂内荘厳などから、中国・唐の大きな影響があったことが判ります。のちの文武天皇の時代には、大官大寺、薬師寺、飛鳥寺とともに四大寺に数えられ、国家寺院(官寺)として扱われました。
09 檜隈寺跡
檜隈寺跡は、飛鳥宮の南西、檜前盆地の中央にある渡来系氏族の拠点に造営された仏教寺院跡です。塔をはさんで南北に金堂、講堂を配し、西門(中門)から延びる回廊が金堂・講堂に取り付いて囲むという独自の伽藍配置を持ち、百済の寺院でよく見られる瓦積基壇が採用されています。仏教が公認されて以降、天皇が寺院造営を奨励したのにともない、有力豪族は氏寺の建立を進めました。そのうちのひとつである檜隈寺は、有力渡来系豪族である東漢氏が氏寺として造営を開始した仏教寺院です。講堂の基壇外装に百済の寺院でよくみられる瓦積基壇が採用されていることからも、東アジアとの交流を背景として、有力氏族が寺院建立を進めたことが判ります。
17 大官大寺跡
大官大寺は、藤原宮の東南の条坊内に計画的に配置された国家寺院跡です。「飛鳥・藤原」最大の寺院であり、特に九重塔は東アジア各国(唐・百済・新羅・高句麗)に共通する国家のシンボルでした。今は香具山南麓の水田の中に九重塔、金堂の基壇跡が僅かに残り往時の伽藍の存在を示しています。1974年より始まった発掘調査により、講堂や回廊、中門などの遺構と伽藍の規模が明らかになりました。大官大寺は711年、大火災により金堂、講堂、塔、中門、回廊など主要伽藍が焼失しました。この時点で完成していたのは金堂と講堂のみで、塔、中門は建設中であったようです。大官大寺は710年の平城京遷都に伴い移転され、平城京大安寺として現在も法灯を継いでいます。聖武天皇により東大寺が建立されるまで、国家の筆頭寺院の地位を占めていました。
18 本薬師寺跡
本薬師寺跡は、藤原京の西南の条坊内に計画的に配置された国家寺院跡です。本薬師寺跡は近鉄畝傍御陵前駅から東へ約500mの城殿町の集落内にあります。金堂、東塔、西塔の基壇跡がよく残っています。現在、医王院と呼ばれる寺院建物がある金堂跡には、礎石が当時の位置のまま残されています。また水田の中に土盛り状に残された東西両塔の基壇跡のうち、東塔基壇上には、塔の心礎と礎石が、西塔基壇上には心礎が残されています。中門、金堂、講堂が南北直線に並び、金堂と中門の間に仏塔が東西に並ぶ双塔式の伽藍配置とその規模は、710年の平城京遷都後の薬師寺にも受け継がれています。
墳墓
10 石舞台古墳
石舞台古墳は、明日香村島庄にある一辺約50mの方墳です。墳丘の上部は失われて横穴式石室の巨大な天井石が露出しており、江戸時代には既に観光名所として知られていました。石室からは石棺の一部とみられる凝灰岩片が出土しています。古墳の築造にあたり、小規模古墳を壊して整地しており、墳丘の巨大さも相まって相当な権力者の墓であったことがわかります。一説には『日本書紀』で桃原墓と呼ばれる蘇我馬子(626年没)の墓であるとされます。古墳の形状と埋葬施設が明らかとなっている石舞台古墳は、前方後円墳の次世代の権力者の墳墓の姿をよく伝えています。
11 菖蒲池古墳
7世紀中頃、飛鳥宮跡などが所在する飛鳥盆地から見て西方向に位置する丘陵(甘樫丘)の南斜面に築かれた墳墓です。墳形が中国の皇帝陵等に採用されていた方墳であることから、有力者の墓であると考えられています。埋葬施設は古墳時代の横穴式石室を踏襲しつつ、石舞台古墳と比較して墳丘は小規模になっています。
12 牽牛子塚古墳
7世紀後葉、飛鳥宮跡などが所在する飛鳥盆地から見て南西方向に築かれた墳墓です。八角墳という形態は、中国の宇宙観に基づきながら、天皇を頂点とした中央集権国家の確立を目指し、方墳に代わって日本独自に創出されました。墳墓の築造は大陸の技術や思想が取り入れられ、墳丘形態は独自のものを採用した、東アジアで他に例を見ない墳墓です。「天皇陵を頂点とする新たな権威」が墳墓によって示されています。
19 天武・持統天皇陵古墳
7世紀後半に築かれた、藤原京の造営を計画した天武天皇と皇后の持統天皇が合葬された陵墓です。飛鳥時代の天皇陵のみに許されたといわれる八角形の墳形を採用しています。藤原宮の中軸にあたる朱雀大路の真南に位置し、墳墓と宮殿が一体的に造営されたことを示しています。天武天皇は古墳時代以来の伝統的な方法で埋葬されましたが、持統天皇は骨蔵器が納められていたことから火葬を基本とする仏教思想の導入を示しており、このことは『続日本紀』の「檜隈大内陵」の記述とも合致します。
20 中尾山古墳
中尾山古墳は明日香村平田にある墳墓です。壁画古墳として著名な高松塚古墳の北側に位置します。令和2年の発掘調査では、小型の石室を備えた八角墳であることを確認しています。最上位に位置づけられる八角墳と、火葬で単独埋葬されているという条件から、文武天皇の陵である可能性が指摘されています。墳丘は一段目、二段目が基壇状の石積み、三段目を土盛りとする特異な形であり、火葬と合わせて仏教的要素が濃いものとみられます。古墳時代より続いてきた墳墓の最終段階の姿です。
21 キトラ古墳
7世紀後半から8世紀初頭に築造された、藤原宮の南の墓域に位置する壁画古墳です。東アジア現存最古の天文図を伝える墳墓で、この天文図は、現代天文学の成果から中国で観測されたことが判明しています。墳丘は何層にも重ねて築造されており(版築技法という)、このことは中国・朝鮮半島の土木技術の影響を示しています。天文図のほかにも四神や十二支、日月が描かれた壁画は、保存修理のために一時的に取り外され厳重に保管されています。
22 高松塚古墳
7世紀後半から8世紀初頭に築造された、藤原宮の南の墓域に位置する壁画古墳です。古墳は国の特別史跡に、壁画は国宝に指定されています。壁画には中国の伝統的な思想に基づいた、男女それぞれの人物群像や四神、星宿図(星座)が描かれ、高句麗や唐の影響が顕著に表れています。中でも石室の西壁に描かれた女子群像は、環境変化によりカビの発生など劣化が起こりましたが、約12年間にわたる修理作業で蘇り、文化財保護の象徴的な存在として位置づけられています。