藤原宮跡・藤原京朱雀大路跡
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名称 |
藤原宮跡・藤原京朱雀大路跡 |
所在地 |
橿原市高殿町、別所町、醍醐町ほか |
指定年月日 |
1946年11月21日(藤原宮:史跡)1952年3月29日(藤原宮:特別史跡)1978年10月4日(藤原京朱雀大路跡:史跡) |
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日本で成立した古代律令国家の中心で、官制の確立と大幅に機能強化した国家の中枢施設とその左右に官衙を配置し、日本独自の宮殿様式が成立した宮殿遺跡(694~710年)です。天皇の儀式の場となる大極殿、政務の場である朝堂院をおき、主要建物に礎石建瓦葺建物を採用するなど、日本の宮殿では初めて中国式宮殿様式を採用しました。一方で、居住区である内裏等には檜皮葺掘立柱建物を採用し、朝庭や殿堂配置、門号に天皇を守る氏族名をあてたことが文献や木簡でわかるなど、飛鳥宮以前の宮殿様式も多くとどめています。その結果、古代東アジア国家に類例を見ない独自様式の宮殿として成立しました。その基本構造は、飛鳥宮で一体化していた天皇の公的空間と私的空間を完全に分化し、周辺に分散していた官衙等を集約した約1㎞四方に及ぶ方形区画で、奈良(平城宮)、京都(長岡宮、平安宮)へと続く日本の宮殿様式の源流となりました。この藤原宮を中心に日本初の中国式都城である藤原京を造営、京内には仏教による鎮護国家を象徴する2つの官寺(大官大寺・本薬師寺)を南におき、天皇陵や墳墓を京外の南方で宮殿の真南を意識して配置するなど、都市計画においても飛鳥宮からの大幅な発展段階を示しています。
大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)
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名称 |
大和三山(香具山・畝傍山・耳成山) |
所在地 |
橿原市木原町(耳成山)、南浦町(香具山)
慈明寺町、大谷町、山本町、大久保町、吉田町、畝傍町(畝傍山) |
指定年月日 |
2005年7月14日(名勝) |
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香具山、
畝傍山、
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古来神の山として崇めた山々を、中国の都城の造営理念である四神相応の地物になぞらえ、藤原宮の位置を決定づける思想的ランドマークとなった3つの山です。7世紀後葉には既に「三山」として認識され、藤原宮を囲う三山が人々に意識されていたことが、日本最古の歌集である『万葉集』収録の歌に詠まれており、宮殿の造営理念に関わる大陸と日本の理想的な融合を示しています。
大官大寺跡
藤原宮の東南の条坊内に計画的に配置され、西の本薬師寺跡とともに朱雀大路をはさんで東西に対峙する二つの官寺跡の一つです。『続日本紀』からは、701年頃に造営がはじまったと推定されます。「飛鳥・藤原」最大の寺院であり、特に九重塔は東アジア各国(唐・百済・新羅・高句麗)に共通する国家のシンボルです。発掘調査では、未完成のうちに火災にあったことを示す痕跡が見つかり、711年に焼失したとする文献がそれを裏付けています。
本薬師寺跡
藤原京の西南の条坊内に計画的に配置され、東の大官大寺とともに東西に対峙する二つの官寺の一つです。680年に天武天皇が皇后の病気回復を願って造営を開始、持統天皇が造営を継承して、双塔式伽藍の寺院として完成しました。双塔式伽藍は、次の平城京の国家寺院へと受け継がれました。
天武・持統天皇陵古墳
藤原京を建設した天武天皇、持統天皇の陵で、藤原宮の中軸線の真南に築造された墳墓です(7世紀後葉の築造)。飛鳥時代の天皇陵のみに許されたといわれる日本独自の八角形の墳形を採用しています。夾紵棺と火葬された遺骨を蔵骨器に納めたことが判明しており、天武天皇陵へ天皇として初めて火葬された持統天皇を合葬した『続日本紀』の「檜隈大内陵」の記述と合致します。火葬の導入は、仏教思想に基づく葬送方法や死生観を示しています。藤原宮とその造営者である天武・持統天皇陵古墳の位置関係は、宮殿と王陵の新しい設計思想を端的に反映しています。
中尾山古墳
藤原宮の中軸線のほぼ真南に築造された、日本独自の八角形の古墳で8世紀初頭の築造です。飛鳥時代の、天皇の権威性を示すために創出されたといわれる八角墳と、蔵骨器の埋納を前提とする内部空間が狭い石槨形式を採用しています。火葬墓の出現は、仏教思想に基づく葬送方法や死生観を示し、日本の古墳の終焉を象徴しています。
キトラ古墳
7世紀後葉~8世紀初頭の築造の壁画古墳です。長さ2.4m、幅1.04mの石槨内に、漆喰を塗り、天井と四壁に壁画を描きます。四神図(玄武・青龍・朱雀・白虎)等の図像で、陰陽思想や四神思想における天と地を石槨内に表現しています。特に、中国で観測したとみられる天文図は、現存する本格的な天文図としては最古のものであり、四神図・十二支像とともに「キトラ古墳壁画体験館四神の館」で保管・公開されています。
高松塚古墳
藤原京時代の新しい造墓思想が確立した壁画古墳です(7世紀後葉~8世紀初頭の築造)。長さ2.6m、幅高さとも約1m(いずれも内法)の石槨内に、漆喰を塗り、壁画を描いています。四神図(玄武・青龍・白虎)の図像で、陰陽思想や四神思想における天と地を石槨内に表現しています。また中国古墳壁画に類似する男女群像は、当時の服飾や風俗を知る貴重な絵画資料です。そして天井の天文図は重要な28星座と天極五星を描いたもので、キトラ古墳の天文図と比較して、簡略化が進んだ図像です。