構成資産の紹介

 

飛鳥宮跡
飛鳥宮跡写真
名称 飛鳥宮跡
所在地 明日香村大字岡
指定年月日 1972年4月10日(史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
7世紀に建設された4時期(飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮)の宮殿遺跡です。それまでの宮殿が代ごとに場所を変えるのに対して、ほぼ同じ場所に宮殿を固定するようになりました。また、建物配置などから、公的な儀礼・政務の場と私的な居住空間が一体となった宮殿です。官衙(役所)は、宮殿外郭の内外に分散しており、宮殿内に集約化はされていません。我が国古来の建築様式である掘立柱建築、屋根は檜皮あるいは板葺とされます。百済等朝鮮半島の王都の地形に類似した、防御に適した立地(山に囲まれた盆地)に位置し、宮殿関連遺跡群の中核となる遺跡です。

 

飛鳥京跡苑池
伝飛鳥板蓋宮跡写真
名称 飛鳥京跡苑池
所在地 明日香村大字岡
指定年月日 2003年8月27日(史跡・名勝)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
飛鳥宮内郭の北西隣接地に7世紀中葉(斉明朝)に造営された庭園遺跡です。朝鮮半島の庭園文化や思想・技術を採用し、宮殿のそばに人工的に造られた本格的な庭園です。その造形や石造を多用する構造は、朝鮮半島からの影響を強く示すとともに、芸術的価値を併せもち、その後の日本庭園に繋がる最古の事例に位置づけられます。

 

飛鳥水落遺跡
飛鳥水落遺跡写真
名称 飛鳥水落遺跡
所在地 明日香村飛鳥
指定年月日 1976年2月20日(史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
660年に造られた日本最古の水時計台の遺跡です。中国(唐)の知識と技術を導入し、正確な時間を測った「漏刻」と時を知らせる漏刻台を初めて造りました。宮殿外に設置され、当時の最高権力者にのみ許された時間の管理は、役人を管理する重要な施策であることから、官僚制の整備と役所の成立を示す物証です。

 

酒船石遺跡
酒船石遺跡写真
名称 酒船石遺跡
所在地 明日香村大字岡
指定年月日 1927年4月8日(史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
国家形成の宗教的側面を示す7世紀中葉に造営された祭祀遺跡です。古墳時代の水の祭祀の性格を引き継ぐとともに、新しく導水の石造物を採用した祭祀施設に位置づけられます。また、酒船石及び亀形石槽の加工・彫刻技術は朝鮮半島からの知識・技術を採用したもので、遺跡全体を巡る石垣遺構も朝鮮半島の技術を応用しています。

 

飛鳥寺跡
飛鳥寺跡写真
名称 飛鳥寺跡
所在地 明日香村大字飛鳥682
指定年月日 1966年4月21日(史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
日本で最初の本格的伽藍を持つ仏教寺院(596年完成)の遺跡です。史料から、百済・高句麗の僧侶や造寺工の技術者が関わることがわかると同時に、伽藍配置や出土瓦などからも、両国の関わりが強いことが証明されます。造営にあたり渡来人技術者の指導を得ながら、日本の工人がそれまでの技術も援用しながら造営していることがわかります。仏教の導入は一宗教にとどまらず、最先端の文化でもあり、国家形成における仏教の役割を示す点においても重要です。飛鳥寺の寺名のほか、元興寺、法興寺、法満寺とも呼ばれました。その位置は、飛鳥盆地の中央部にあたり、後の宮殿の占地に重要な役割を果たしています。現在も飛鳥寺本堂には、中金堂の本尊であった606年に完成した釈迦如来坐像が安置されています。

 

橘寺跡(橘寺境内)
橘寺境内写真
名称 橘寺跡(橘寺境内)
所在地 明日香村大字橘532
指定年月日 1966年4月21日(史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
7世紀前葉に造営された百済式伽藍を採用した尼寺です。史料から尼寺であることが証明できる最古の寺院遺跡のうちの一つです。法号は菩提寺。川原寺と隣接し、出土瓦等から7世紀前葉の創建とみられます。川原寺とともに宮殿西側の重要な位置を占めることから、東を正面とする伽藍配置をとっており、飛鳥宮との強い関連性がみられます。伽藍は東から中門、塔(心礎・礎石・基壇)、金堂、講堂が一直線上に並び、中門から出た回廊が囲む百済式伽藍です。この伽藍様式は、仏教文化の絶え間ない吸収を物語る多様な伽藍配置の一例です。

 

山田寺跡
山田寺跡写真
名称 山田寺跡
所在地 桜井市大字山田
指定年月日 1921年3月3日(史跡)
1952年3月3日(特別史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
7世紀中葉に有力氏族である蘇我氏が造営した氏寺の遺跡です。別名 浄土寺。飛鳥宮の北東方向に位置し、丘陵斜面を大規模に造成し寺院が造られています。造営過程の詳細が、『日本書紀』など文献に記録が残ります。それらによると641年に蘇我倉山田石川麻呂により造営開始され、蘇我氏が衰退後は天皇家の助力により685年に寺院が完成しました。塔・金堂一直線上に並べ回廊で囲み、講堂がその北にある配置で、百済式伽藍を発展させた伽藍配置をとります。発掘調査で、災害により倒壊した東回廊が良好な状態で出土し、当時の寺院建築様式を豊かに復元できます。それは現在判明している木造仏教建築の世界最古の例です。

 

川原寺跡
川原寺跡写真
名称 川原寺跡
所在地 明日香村川原
指定年月日 1921年3月3日(史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
7世紀中葉に造営された天皇発願の寺院跡です。法号を弘福寺。飛鳥宮の西に対峙する位置関係にあることから東門が大きく造られました。宮殿と寺院がセットになる代表例です。文献から、673年には伽藍が整っていることがわかります。伽藍配置は、仏堂を中心とした唐尺使用の一塔二金堂式伽藍配置。南から南大門、中門を入り、西金堂、東に塔が並びます。その北に中金堂があり、中門から伸びた回廊がこれにとりつきます。中金堂の北側には講堂が、講堂は東西から北へのびる三面僧坊が囲います。中金堂および講堂との間には、東西に鐘楼もしくは経楼が配置されています。このような伽藍配置は、それまでの寺院には例がなく、新たな様式です。創建瓦は中国の瓦に影響を受け成立したとされる複弁蓮華紋軒丸瓦で、以後の寺院ではこの瓦文様が主流となります。伽藍下層では「川原宮」と推定される宮殿遺構が一部確認されています。

 

檜隈寺跡
檜隈寺跡写真
名称 檜隈寺跡
所在地 明日香村大字檜前
指定年月日 2003年3月25日(史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
有力渡来人の建立した氏寺跡。別名:道興寺。渡来人の集住した地の中心にある丘陵上に造られ、特異な伽藍配置をとります。瓦積基壇を採用するなど、新たな技法を採用しています。創建は7世紀前葉だが、伽藍が整備されるのは7世紀後葉で、686年の文献に記録があります。

 

石舞台古墳
石舞台古墳写真
名称 石舞台古墳
所在地 明日香村大字島庄
指定年月日 1935年12月24日(史跡)
1952年3月29日(特別史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
新しい造墓思想を採用した7世紀前葉の有力者、蘇我馬子の墳墓です。埋葬施設に大型横穴式石室の構築技術を使用していることから、前方後円墳の時代からの技術を踏襲しており、氏族墓としての石室構造をとります。一方で、中国・高句麗の有力墳墓に採用されている方形墳を採用することは、国家体制の変化が墳墓にも変化をもたらせたことを示しています。

 

菖蒲池古墳
菖蒲池古墳写真
名称 菖蒲池古墳
所在地 橿原市菖蒲町
指定年月日 1927年4月8日(史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
7世紀中葉に築かれた墳墓。埋葬施設に前時代の横穴式石室と家形石棺を踏襲する一方で、丘陵の南斜面を造成して築く立地、墳形、墳丘構築技術に大陸の造墓思想と技術を採用しています。技術革新が続いた日本の墳墓に、大陸の新しい造墓思想と築造技術を導入していく過程の段階を示します。

 

牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳写真
名称 牽牛子塚古墳
所在地 明日香村大字越
指定年月日 1923年3月7日(史跡)
航空写真で見る Google Maps(別ページで開きます)
中国の八角の思想をもとに日本で独自に創出された八角墳です。発掘調査により、八角形の墳丘をもつことが判明しています。八角の思想の根幹には、国内全土を支配する最高権力者の意志が色濃く表されています。有力豪族などの墳墓に採用されていた方墳から、天皇の権威性を示すために創出されたといわれる墳丘形式です。墓室は、百済の墳墓から採用された横口式石槨。巨石を刳り貫いて、二部屋を造り出す石槨は日本独自のものです。古墳は3つの尾根の中央尾根上に造られ、風水思想を採用した立地となります。