構成資産の紹介

 

石舞台古墳 (国指定特別史跡)
石舞台古墳写真
名称 石舞台古墳
所在地 明日香村大字島庄
面積 12,317平方メートル
指定年月日 昭和10年12月24日
特別史跡 昭和27年3月29日
石舞台古墳は、細川谷に入っていく渓口部に築造された一辺約50メートルの大方墳で、飛鳥所在古墳の代名詞になる著名な古墳である。この古墳は、古くから石室天井部の石が露出していて、『西国三十三所名勝図会』などに旧態が描き出されており、『和州旧跡考』には「その近き所に石太屋とて陵あり」との記事がみられる。明治末年、喜田貞吉博士によって蘇我馬子桃原墓と推定されたりしていた(喜田貞吉「蘇我馬子桃原墓の推定、稀有の大石槨島の庄の石舞台の研究」歴史地理19-4、明治45年)が、日本学術振興会から費用の援助を得て、昭和8年1月5日より、奈良県史蹟調査会と京都帝国大学考古学教室の共同で、浜田耕作博士が総括責任者、末永雅雄博士を現地主任にして石室を中心に発掘調査が始められた。続いて昭和10年4月より、墳丘基底部の周湟と外堤の調査が行われ、昭和10年12月24日文部大臣より史蹟としての指定を受け、更に昭和27年3月29日、特別史跡の指定を受けている。それにともない昭和29年より33年にかけて湟及び外堤の復原工事が行われ、東北隅の湟の上を通っていた県道も湟外にそって迂回されることとなった。

 

高松塚古墳(国指定特別史跡)
高松塚古墳写真
名称 高松塚古墳
所在地 明日香村平田字高松
面積 913平方メートル
指定年月日 昭和47年6月17日
中尾山古墳と文武天皇陵との中間の丘陵南斜面に位置する。墳丘は直径23メートル、高さ5メートル程度の二段築成の円墳であり、昭和47年3月21日に極彩色の壁画が発見され一大センセーションをまき起こした。古墳は国の特別史跡に、壁画は国宝に指定されている。内部は横口式石槨で、内法の長さは2.6メートル、巾1メートル、高さ1.1メートルであり、凝灰岩の切石をもって築造されている。石槨内は漆喰が全面に塗られ、壁面には彩色壁画が描かれ、漆塗木棺が埋納されていた。南面より盗掘を受けていたが、出土遺物として、人骨以外には金銅装棺金具、海獣葡萄鏡一面、銀装大刀外装具などが検出された。これらは正倉院御物などに文化史的に近いものである。特に葡萄鏡は中国の西安市の唐墓から出土した鏡と同じ鋳型で製作された同笵鏡であることが分かり注目される。壁画は、側壁面に男女人物群像、四神、日月、天井部に星宿が描かれていたが、その根本は中国の伝統的な思想を背景にしたものであり、高句麗、唐の影響が顕著に認められている。

 

川原寺跡(国指定史跡)
川原寺跡写真
名称 川原寺跡
所在地 明日香村川原
面積 73,838平方メートル
指定年月日 大正10年3月3日
川原寺は、創建の年代、経過については明らかではないが、飛鳥朝極めて重要な意義を持っていた寺院である。 まず、創建の時期については敏達天皇13年説、斉明天皇元年説、斉明天皇7年説、天武天皇朝あるいは奈良時代の宝亀5年説などがあって、必ずしも明確でない。しかし、天武紀2年3月の条に「是月聚書生始写一切経於川原寺」とある。したがって以上の内容と合わせて、天武期に存在したことは確かである。ただし、従来からも問題となっている孝徳紀白雉4年6月の条の僧旻法師の遷化に関する記事の中に「安置川原寺」とあるが、その割註に「或本云在山田寺」とあることから、川原寺か山田寺かどちらか不詳である。しかし、天武朝以後、奈良朝にかけてかなり勢力をもった寺院であったことは容易に知られる。すなわち天武紀14年8月甲戌朔丙戌に「幸于川原寺施稲於衆僧」とあり、同9月丁卯の天皇の病気平癒祈願のために「桶経於大官大寺・川原寺・飛鳥寺。因以稲納三寺」とあり、朱鳥元年4月壬午の条には「為饗新羅客等、運川原寺伎楽於筑紫、仍以皇后宮之私稲五千束、納于川原寺」とあり、川原寺に伎楽が置かれていたことがわかる。また、同5月癸亥には「天皇体不安、因以於川原寺説薬師経」、同6月丁亥には「勅遣百官人等於川原寺為燃燈供養、仍大斎之悔過也」とあり、9月辛丑には「悉集川原寺為天皇病誓願」とある。したがって天武天皇の病気平癒を祈願するため、川原寺において盛んに法会が行われたことが知られる。その甲斐なく天皇崩御の後、持統即位前紀12月乙酉の条に「奉為天渟中原瀛真人天皇設無遮大会於五寺」とあり、その中に川原寺の名が挙げられている。こうしたことより川原寺は天武天皇と特別な関係にあったことが推定される。

 

大官大寺跡 (国指定史跡)
大官大寺跡写真
名称 大官大寺跡
所在地 明日香村大字小山
面積 46,642平方メートル
指定年月日 大正10年3月3日
日本書紀によると、聖徳太子によって平群に創建された「熊凝精舎」を、舒明天皇が百済川畔に移し、「百済大寺」といい、次いで天武天皇は天武2年(673年)に、この飛鳥の地に移し「高市大寺」といったが、同6年(677年)、天皇の寺という意味の「大官大寺」と改称したとある。しかし、発掘調査の結果、現在の大官大寺跡の伽藍は、文武朝のものであることが確認され、書紀に記された天武朝の高市大寺は別にあったと考えられ、7世紀後半~末にかけて国家の経営する大寺として、雄姿を誇り朱鳥元年(686年)には天武天皇の病気回復の祈願が行われ、持統天皇の時梵鐘を鋳造、文武天皇の時には九重塔や金堂が完成し飛鳥の大寺院の一つとして荘厳をきわめたといわれる。特に塔は方五間、講堂は正面九間、側面四間もある雄大な規模を有したものであった。その後、平城遷都とともに寺籍を新都に移し大安寺となり、旧寺は和銅4年(711年)藤原京の大火で焼失し、以後、寺地は田畑や民家と化してしまった。それでも明治中期までは金堂跡と塔跡が残り礎石も残っていたが、明治22年橿原神宮造営の際、運び去られ、現在その面影を伝えるものは、わずかに残った土壇のみとなっている。

 

牽牛子塚古墳 (国指定史跡)
牽牛子塚古墳写真
名称 牽牛子塚古墳
所在地 明日香村大字越
面積 396平方メートル
指定年月日 大正12年3月7日
またの名をあさがおづかともいう。貝吹山(210メートル)を最高点とする通称真弓丘と呼ばれる低い丘陵の一画にあり、檜前の皇陵、古墳群を望見できる景勝の地に位置する。国の史跡に指定されている。平成21年の調査で対辺長約22メートル高さ4.5メートル以上の八角形墳であることが判明した。内部は、巨大な一個の凝灰岩をくり抜いて左右二室に造った横口式石槨で、他に例をみないほど精巧に造られており、天井は緩やかなドーム状の曲面をなしている。この古墳も古く盗掘を受けている。大正3年の調査時に夾紵棺(きょうちょかん)の破片、七宝飾金具、ガラス製丸玉、人骨片などが検出された。被葬者は、川嶋皇子とも浅香王ともいわれたが、斉明天皇と間人皇女という説が有力である。石槨の構造、夾紵棺、古墳の位置等から天皇家を含めてその一族に連なる被葬者が推定される。終末期の古墳である。また隣接、南東側で刳り貫き式横口式石槨の越塚御門古墳が検出された。この越塚御門古墳の発見は、「日本書紀」天智6年の粂との関連が注目されている。

 

中尾山古墳 (国指定史跡)
中尾山古墳写真
名称 中尾山古墳
所在地 明日香村大字平田
面積 987平方メートル
指定年月日 昭和2年4月8日
上平田と下平田集落中間の丘陵上に立地し、高松塚古墳の所在する丘陵よりをひだてた北側丘陵にあたる。『大和志』に、「檜前安古岡ノ上陵文武天皇在平田村西俗呼中尾石墓」と記載されているように文武陵と考えられたこともあり、石墓の名にふさわしく、見事に川原石で墳丘が築成されていたようである。 昭和49年の調査で墳丘は、直径約29.4メートル、高さ約4.0メートルの八角形墳であることが判明した。明治14年頃、葺石や大きな石材は庭石や建築用道路石垣などの用材として、売却破壊された由であるが、当初は墳丘基底部に直径45センチ以上の大石を立て並べ、墳丘中段にも同様に囲繞した石があり、その間を人頭大の川原石で敷き詰めた状態に置かれていた。そして、これらの立て並べた石は整斉された積み方で、破壊の際も容易に動かず、最初の一個を抜き取ってはじめて他の石を取る事を得たと伝えられている。従来の古墳墳丘表面の茸石や貼石の類よりも、新羅王墓などにみられる外護石的な要素の加味された用法が看取される。

 

酒船石 (国指定史跡)
酒船石遺跡写真
名称 酒船石(さかふねいし)遺跡
所在地 明日香村大字岡
面積 31.408平方メートル
指定年月日 昭和2年4月8日
岡字酒舟1266番地の地籍に、俗に「酒船石」と称する石造物がある。石材は、石英閃緑岩で、上面が平坦となり、長さ約550センチ、最広幅約230センチ、厚さ約100センチである。上面に刻された施設は、まず東端に不正形な半円形(南北径約72センチ、東西径45センチ、深さ約6センチ)の溜りがあり、その西端から中央と左右に計三条の溝をつける。中央の溝は石面のほぼ中央に穿られた楕円形(長径130センチ、短径約70センチ、深さ約10センチ)の溜りがあり、溝は中央部でさらに西にのび、落下し溜まる。他方左右にのびる溝は途中、溝が分岐し、おのおの円形(直径約50センチ、深さ約6.6センチ)の溜まりに連接する。左右両端は石が欠きとられているため、どのように展開するかは不明である。この石造物は昭和2年4月8日に史跡に指定されたがどのような用途を持つものかは不明である。ただ、従来からの俗称をそのままの用途であると見て、酒の醸造であると言う説、あるいは油絞りの用途と考える説、砂金などの精選の用とみる説、辰砂(水銀朱)を製造する説から曲水の宴の場所とみるなど様々な説があるが、いずれも決定的ではない。平成4年には、酒船石の丘陵で宮の東の山の石垣が発見され、さらに平成10年には、亀形石造物が出土した。

 

定林寺跡 (国指定史跡)
定林寺跡写真
名称 定林寺跡
所在地 明日香村大字立部
面積 17,163平方メートル
指定年月日 昭和41年2月25日
創建や沿革については、よく解っていない。寺伝によると聖徳太子御建立七ヵ寺の一寺とするが、その創建や寺史については全くわからない。渡来系氏族の氏寺の「立部寺」との説もある。しかし、現在の定林寺の西側、字奥の堂の神社境内に塔跡をはじめ土壇や礎石などの建築遺構があり、昭和27年石田茂作氏らの発掘調査の結果、塔の心礎が確認され、さらに朔像の菩薩の残欠や素弁蓮華文の瓦片などの出土があって、飛鳥朝創建の寺院と考えられている。また昭和28年12月に行われた日本考古学協会の発掘調査では、塔跡と廻廊跡の発掘調査が実施された。その結果、塔跡では地表下6尺7寸(約2メートル)の位置に東西9尺3寸(約2.82メートル)、南北5尺8寸の花岡岩の石材に径2尺7寸(約82センチ)、深さ3寸(約9センチ)の円形柱座を掘り込んだ心礎が検出された。また地表面から心礎までの空洞を埋めたなかに朔像片、古瓦片などが遺存していた。また廻廊についても一部発掘が実施され、桁行8尺2寸(約2.48メートル)、梁間9尺(約2.7メートル)の建物であったことも確認された。

 

飛鳥寺跡 (国指定史跡)
名称 飛鳥寺跡
所在地 明日香村大字飛鳥682
面積 46,183平方メートル
指定年月日 昭和41年4月21日
飛鳥寺は飛鳥時代、飛鳥地方における最大の寺院であり、法興寺、元興寺とも称されていた。日本書紀によれば、崇峻天皇元年の条にあるように即位前紀に厩戸皇子、蘇我馬子(大臣)らが物部守屋(大連)を攻めた際、大臣は「凡諸天皇、大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天興大神王、起立寺塔、流通三宝」と戦勝を祈願し、その目的が成就したので「依本願、於飛鳥地、起法興寺」とあるに由来する。かくして、法興寺の起工が行われ、崇峻天皇3年冬10月に「入山取寺材」とあり、崇峻天皇5年冬10月・推古紀元年春正月壬辰朔丙辰にもみえるように塔婆の建立も着々進捗していた様子を知ることができる。また約5年後の推古紀4年冬11月の条の記載によれば、このとき、寺院の建築が一応完成し、僧二人が飛鳥寺に住することになった事情が判明する。しかしその時点では、まだ本尊の鋳造安置は未完成であったらしい。推古紀14年夏4月乙酉朔壬辰からは、約1ヵ年の歳月をかけて本尊丈六銅像と繍仏を製作したことがわかる。これらのことは『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にみえる「露盤銘」や、「丈六釈迦光背銘」などに、ほぼ同じ内容のことが記載されている。

 

橘寺境内 (国指定史跡)
橘寺境内写真
名称 橘寺境内
所在地 明日香村大字橘532
面積 95,245平方メートル
指定年月日 昭和41年4月21日
創建の事情や年代については明確ではないが、聖徳太子伝暦によれば太子がこの地で勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜられたとき、瑞祥があり、それによって仏堂を建立したとある。従来から問題視されている史料としては、河内野中寺の弥勒像の丙寅(天智天皇5年-666)の紀年銘に「橘寺智識之等(詣)中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也」とある。また法隆寺東院資材帳によると推古天皇14年7月、「天皇詔太子日、於朕前講説勝鬘経、則依詔太子講説三日、講竟夜蓮花零、花長二三尺溢方三四丈之地、則其地誓立寺院、是今菩提寺也」とある。推古14年という年代についてどの程度の信憑性がるかは別として、天武紀9年夏4月、「乙卯(十一月)、橘寺尼房失火、以焚十房」とあり、また類従国史には延暦14年4月20日の条に「大和国稲二千束施入菩提寺以遭火災也」とある。さらに上宮太子拾遺記には久安4年(1148)に塔が雷火のため焼失したと伝える。これらの記事によると再三災厄をうけたらしい。平安朝になって、治安3年藤原道長が参詣し、享徳元年の古記のある南都七大寺巡礼記には、伽藍の構成などを挙げている。

 

岩屋山古墳 (国指定史跡)
岩屋山古墳写真
名称 岩屋山古墳
所在地 明日香村大字越
面積 1,125平方メートル
指定年月日 昭和43年5月11日
近鉄飛鳥駅のすぐ西方に位置する。国の史跡に指定されている。牽牛子塚古墳やマルコ山古墳の所在する真弓丘の東端にあたる。 昭和48年からの調査の結果、一辺約54メートルの方形墳が想定された。石室は表面を磨いた精美な切石造の横穴式石室であり、ほぼ南面して開口している。このような切石造の横穴式石室は、飛鳥地方から桜井地方にかけて多く分布し、「岩屋山式」とも呼ばれる。 被葬者については、吉備姫王(きびひめのみこ)・巨勢雄柄宿禰・斉明天皇らの名があげられるが詳細は不明である。七世紀前半の築造である。

 

飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮)(国指定史跡)
伝飛鳥板蓋宮跡写真
名称 飛鳥宮跡
所在地 明日香村大字岡
面積 9,308平方メートル
指定年月日 昭和47年4月10日
伝飛鳥板蓋宮跡とは、皇極天皇、斉明天皇の皇居。天皇は、皇極二年に小墾田宮から新しく造営されたこの宮へ移った。当時の宮が茅葺、桧皮葺であったのに対して、板蓋であったため、この名がついたと思われる。伝飛鳥板蓋宮跡は、「大化の改新」の幕開けとなる蘇我臣入鹿の中大兄皇子等による暗殺の舞台となった。

 

飛鳥水落遺跡 (国指定史跡)
飛鳥水落遺跡写真
名称 飛鳥水落遺跡
所在地 明日香村飛鳥
面積 1,219平方メートル
指定年月日 昭和51年2月20日
飛鳥川の東岸、飛鳥寺の北西に位置し、飛鳥寺の寺域の北西隅の西方が水落遺跡、その北が石神遺跡である。水落遺跡は、7世紀後半の建物の礎石群のある方形基檀を持つ遺跡である。基壇(一辺約22.5メートル、高さ約1メートル)は自然石を三~四段積み上げた正方形のもので、周囲に底幅1.8メートルの濠状の溝を回す。この基壇の上に、方四間総柱(柱芯一辺11メートル)の楼閣が建っていたものと見られる。基檀中央に据えたママ石には、柱の底をかませたくり込みがあり、さらに礎石には、縦横斜めにも梁石を連結させ、堅固に据えている。基檀中央には台石に据えた漆塗の箱を設置し、これに向かって八釣川から導水した木樋暗渠や、サイホン方式の桶水に用いられたと見られる銅製の銅管が検出され、また冬季には氷結防止のため温めていたらしく、炭が出土している。これが漏刻と漏刻台と考えられている。

 

飛鳥稲淵宮殿跡 (国指定史跡)
名称 飛鳥稲淵宮殿跡
所在地 明日香村稲淵
面積 12,750平方メートル
指定年月日 昭和41年4月21日
遺跡は石舞台古墳の南、約400メートル(明日香村大字稲渕)、国営飛鳥歴史公園祝戸地区の入口付近、飛鳥川の左岸にある。 昭和51年(1967)に発掘調査され発見された遺構で、コの字形に配置された掘立柱の建物とそれによって囲まれた石敷広場がある。7世紀中頃から後半のものと思われる土器と硯が出土した。 その後の調査で南方に広大な石敷遺構が発見され、関連施設が南に広がる可能性もある。瓦が出土しなかったことや建物の配置などから宮殿遺跡と推定されているが、遺構の年代とその地理的環境からみて、飛鳥河辺行宮ではないかともいわれている。

 

マルコ山古墳 (国指定史跡)
マルコ山古墳写真
名称 マルコ山古墳
所在地 明日香村真弓
面積 2,735平方メートル
指定年月日 昭和57年1月16日
真弓丘と称される丘陵に築造された7世紀末後半~末の終末期古墳。国の史跡に指定されている。地ノ窪集落の東に位置する。墳丘の対角長24メートル、高さ4.5メートルほどの多角形墳であり、その周囲に外周(直径24メートル)となる外部施設(石敷き)には排水施設を備えている。石槨は凝灰岩の切石を組合せた横口式で、内部は全面に漆喰が塗られている。規模、構造が高松塚古墳と似ており、比較される。被葬者は天武天皇の皇子説などがある。出土品は、乾漆棺の破片、棺を飾る金銅製の六花形文様の金具などが検出されている。 墳丘の西南方向から大きな盗掘孔があり、鎌倉末期から室町初期にかけての盗掘が遺留品から判明している。